Okonomi_yaki
携帯より:
日本人ならお好み焼きは馴染みの食べ物ですが、久しぶりに梅田の阪急東通りに母とお好み焼きを食べに来て、店がほとんど無くなっているので吃驚しました。あれだけ軒を連ねていたのに、今は表通りには、美舟という老舗が一軒だけ。三宮にはまだまだ数があるのに不思議ですが、ほとんどがパチンコ屋や、チェーンの飲み屋に代わっているようです。 美舟、頑固に昔のスタイルを守っていて、泣けました。お勧めです。 グルメ番組じゃないって!
詳細は、今晩にまた・・・
ξ 森井 潔 morii@asics.co.jp URL/http://morii.cocolog-nifty.com

お好み焼きは、コテで食べる

店内は昔のままの造り

マヨネーズなんてのせない
追記:
YNTさんの影響でもないのですが、食べるのは何でも好きですが、お好み焼きは作るのが、もっと好きです。
「美舟」のテーブル脇にグルメ雑誌の紹介記事がありましたが、このお店は、戦後間もない頃からその当時のスタイルを続けている超老舗なのだそうです。
きよもりも戦後間もない、まだ幼稚園にも行かない頃から、当時天王寺さんの参道の焼け跡にあった「汽船」あるいは「喜仙」、もちろん学校前ですから、漢字は読めずただ「キセン」という名前だけは何度も行きましたからよく覚えています。その「汽船」でお好み焼きを毎月のように母や、母の同僚の方たちに連れて行ってもらって、食べたのが最初でしょうか?食べる方ではこちらも老舗ですね。
高校の頃には、クラブの練習帰りによく天神下のお好み焼き屋に寄りましたが、それよりも、今はもう無くなったそうですが、帝塚山学園のすぐ近くの阪堺線の電車通りにあった「やきもきや」が強烈な記憶に残っています。ここでは、男だけの客は大事な女学校の生徒さんに傷をつけてはいけない、というので出入りお断り。その為、高校生にもなって、母に一緒に行ってもらっていました。つなぎの小麦粉を使わず、山の芋とキャベツのみじん切りだけでよく混ぜた生地の上に厚い豚の三枚肉をのせ、フライパンカバーをかぶせて熱を逃がさないようにして焼きます。その間一度も蓋を開けず、もちろんひっくり返さないで、ひたすらフライパンカバーを今か今かと睨み続けます。焼けるまで1時間近くも待たされ、やきもきするので、それがお店の名前の由来だそうです。一時間も待てない人には小麦粉を半分使った「もきやき」というのがありました。山の芋だけですから、まるでケーキのような舌触りで、そこに豚の脂のうまみが加わるのでまさに芳醇な味だったことを覚えています。
このお店のスタイルを真似たのか、昭和45年当時には戎橋筋に「プランタン」という下が喫茶になったお好み焼き屋があり、ここもフライパンカバーを使って厚い豚肉をのせたヤマノイモが多い生地を使っていました。ここへは、昔の彼女、今のかみさんとよく行きました。ここももうありません。
こういった店は、こだわりがあるので、客には焼かせませんでしたが、昭和40年当時のお好み焼き屋はすべて自分で焼くのが当たり前、箸も皿もなくコテで食べる、マヨネーズなんて置いていない、焼きそばだけはソースが焦げ付いて鉄板が傷むので客には焼かせない、というスタイルが当たり前でした。
今日行った「美舟」は、そのスタイルを頑固に守っている今時珍しいお店です。唯一の不満は、豚を生地の上にのせて持ってくることでしょう。私が教えられたのは、生地を鉄板の上に広げてから、豚の三枚肉をのせるのが本来のスタイルです。それは、高校3年の頃、勉強をさぼってよく行ったパチンコ屋の帰りにいつも亡くなった末の兄貴と、TNKさんと一緒に入った、馴染みのお好み焼き屋さんでは、豚以外はお好み焼きではない、豚は三枚肉しか使わない、というポリシーを持ったおばさんがいて、よく薫陶を受けました。ここでは、三枚肉の脂が生地にしみこんでお好み焼きの味が丸くなるからと、肉は必ず皿を別にして持ってきていました。受験生の身で、ビールを飲んだり、パチンコをしたりでけしからん話ですが、お好み焼きのこだわりだけは身に付いたと思います。楽しい時代でしたね。
今日は、尾道から母が神戸に来ていて、朝から清荒神へ歳参りに行き、帰りに梅田、元町を回って帰ってきましたが、84歳になっても元気で、足腰も丈夫なので息子としてはうれしい限りです。
そんなことで、今日は愛宕裏のスケッチのお話はお休みさせていただきました。明日は、山歩仲間例会で、三上山&猪鍋+芋煮会ですから、また明日もスケッチの話は書けないと思います。好天でありますように。
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